今から700年くらい昔、三河の寒村・松平の里に一人の遊行僧がやってきます。名前は「徳阿弥」。今で言えばお笑い芸人と香具師をかねたような人だったのでしょう。司馬遼太郎ふうに言えば、口八丁手八丁で、油断も隙もあったものではないというようなタイプの人だったかも知れません。村一番の有力者、在原某(賀茂という説も有る)という人の家に居候することになります。すぐにその家の大事な娘と出来てしまい、娘は身ごもります。やむなく在原家では徳阿弥さんを婿養子にします。見込まれただけあって、徳阿弥さん、名を松平親氏(ちかうじ)と改め、どんどん勢力を付けていきます。といっても、大変な寒村ですから、戦なんぞに熱中するほど豊かではありませんので、せいぜい言い負かしたり、土豪同士の力比べ程度の争いで勝ちを得たりといったところでしょう。その間にも、近隣の酒井という家の娘にも子を作り、ゆくゆくは酒井と松平は親戚関係になっていったのです。
 この松平の里というのは、いまでもやはり寒村で当時は米も満足に取れる場所ではなかったのでしょう。この山里の民が、米の飯を食べたくて肥沃の平野へ出たかったであろう事は容易に想像されます。そこで、この松平家は三代目くらいでこの地を離れ、だんだんと三河の平野に下りてきました。こうして安祥《安城》、岡崎と駒を進め、最後に親氏から九代目の家康様の代にはついに天下を取ってしまうのです。家康が松平を徳川と改めたのは「徳阿弥」の徳を残したかったのでしょうかね。
 さて、その松平の里へ行ってきました。東海環状道路を「豊田松平」で出て、301号線を新城のほうへ走ります(302号線というのは東名阪の側道ですが番号が近いですね)。 10分くらいで松平郷というところにつきます。今残っているのは高月院という松平家の菩提寺と、家康の死後、久能山から分祀された松平東照宮というお宮がだけです。このお宮は松平さんのお屋敷の跡に立てられたそうで、裏には家康が産湯を使ったという井戸が残っています(家康は岡崎の生まれでここでは産湯を使うはずはありませんが、代々松平家の投手はこの水で産湯を使うことになっていたようで、家康のときもペットボトルに汲んで早馬で岡崎まで届けたそうです。)
また、高月院には親氏の墓や位牌があります。立派な葵の紋がついていました
今でこそ、高速道路が近くを通っていますが、昔は本当に山また山の奥で、よくもこんな所にというような所。それゆえに豊かな平野に強い憧れを持ったのでしょう。

   何にもありませんが大変いいところです。近いですから是非お出かけください。今月中くらいは紫陽花や花ショウブがとてもきれいです。ただし飲食店はほとんどありません。せいぜい寺の前に天下茶屋という軽食屋とそれに五平餅の店が一軒あるだけです。人気もないのでデートコースにもいいです。


高月院の参道 松の下に見えるのは家光寄進の山門
寺は左側の木立の中にある  いまはアジサイと菖蒲が見ごろ
うぐいすの声も間近に聞こえます

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高月院山門から寺をのぞむ
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親氏の墓(真ん中) 戒名は後で付け直したか?
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墓から寺を見下ろす
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位牌のケースには例の紋所 畏れ多いことで
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松平東照宮  ご神体は神君家康公+八幡さま
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