冠婚より葬祭が多い世代
僕の「式服」は、2代目である。加齢メタボの為か、若い頃のウエストサイズが合わなくなってしまい、もっと太めで調節式の2着目を購入した。
式服が、「冠婚葬祭」の両方に着用できるのは、どうしてだろうかと未だ不思議に思っている。特に、男性はネクタイを変えるだけである。本当は、祝い事はもっと華やいだ服装の方が良いと思えてならない。人の誕生も墓場も、人生にとって両面の祭り事と言われる故だろうか。本来的な訳を知っていたら、是非教えて下さい。
その式服を着て参列する儀式、昔は冠婚が断然多かったのに、この頃は葬祭がいつの間にか多くなってきた。今秋、姪の結婚式に出席した時、久々の祝い事に出会ったのが、無性に嬉しく感じてしまった。
その時の出来事である。楽しく歓談している時に、上着のポケットに手を入れると、何かが入っている。取り出してみると、何と「数珠」であった。僕は、慌てて仕舞った。この頃ずっと続いている葬儀、その際に数珠を忘れないように入れておいたのである。
葬祭の話のついでに、もう一つ感じていることを語ろうと思う。この頃の冠婚葬祭は、セレモニー・ホールで行われるのが殆どになっている。昔は、結婚式も新郎の自宅で行っていた。葬儀は、セレモニーホールを利用した方が、悲しむ身内の方々に余分な負担が掛からなくて、ベターだと思う。
僕の住む街と周辺にも、セレモニーホールが沢山出来ている。その前を通り掛ると、見送った先輩・友人、時には後輩達のことを、つい思い出してしまう。改めて、「 安らかに、お眠り下さい。 あの世で(も)、素晴らしい体験を一杯して幸せに暮らして下さい。」霊魂に祈り、ハンドルから片手を放して、両手を合わせる。
思い出す数も、多くなってきている。瀬戸のホール;人柄は良いが要領が悪い若者が、最悪の人達に出会い、猿投山々中でドラム缶の中で焼死した。その悲しい事件を新聞記事で知った僕は、驚いて彼の通夜に駆け付けた。けれども、見送る人も少なく、寂しさを感じてしまう。親御さんは、盛んに僕に語りかけ、何度もお礼を述べておられた。
尾張旭の2ホール;一つは、テニスの女性仲間の葬儀である。色々な病魔に襲われながらも、明るく活発に人生を歩んでいた。けれど、遂に50歳の時に旅立たれた。コートで、80歳の母と共に、テニスを楽しんでいた姿を、懐かしく思い出す。出棺前の最後の対面で、夫の送る言葉が今でも忘れられない。
「幸子(仮名)、もう苦しまなくていいよ。安らかに、お眠りなさい。」
もう一つは、恵まれない家庭の子供達を、的確に心優しく面倒をみてこられた女性との告別である。双方の子供達2人が同じ保育園に通い、家族ぐるみで付き合いをしてきた。両方で、色々お世話になっている。仲の良い素敵な夫妻だったのに、やがて離婚してしまった。その理由は、今も分からない。その直後に、不治の病に冒されてしまった。40代の若さである。
素晴らしき友の悲しい死を惜しむ仲間達が集まり、“送る詩と歌の葬儀” を企画した。 その告別式には、 多くの参列者が集まって、一緒に見送った。別れた夫の姿はないのは、致仕方あるまい。けれど、最愛の日々を一緒に沢山過ごした夫婦だったのに、やはり僕は寂しさを感じてしまう。
春日井のホール;物知りであり、格好良く振る舞う。面倒見が良くて、何かと仕切りたがる男性、身内の葬儀ではあれこれと取り仕切っていた。やがて迎えた自身の葬儀、最後には全く違う流儀で取り仕切られて、あの世に往った。
もっと、もっと思い出す。その数は、年々増えるばかりである。生前の元気な顔と出来事が、色々と浮かんでくる。明日は、我が身である。その内に、自分の順番が回ってくる日も、そんなに遠くの事ではないのを感じる。
やがて消え行く“一つの人生”である。残った人生を元気に楽しく、少しでも長く過ごしたいものである。(小幡グリーンテニスの皆さん、宜しくお願いします。健さんと半太郎さんが、素晴らしい目標です。)
’09年秋 Shinobu T.
<PS>
寂しい葬祭の話ばかりになってしまった。ご免なさい。目出たい冠婚についても、思うことが沢山あります。今回は長くなり過ぎてしまうから、またの機会に語ろうと思います。
僕の「式服」は、2代目である。加齢メタボの為か、若い頃のウエストサイズが合わなくなってしまい、もっと太めで調節式の2着目を購入した。
式服が、「冠婚葬祭」の両方に着用できるのは、どうしてだろうかと未だ不思議に思っている。特に、男性はネクタイを変えるだけである。本当は、祝い事はもっと華やいだ服装の方が良いと思えてならない。人の誕生も墓場も、人生にとって両面の祭り事と言われる故だろうか。本来的な訳を知っていたら、是非教えて下さい。
その式服を着て参列する儀式、昔は冠婚が断然多かったのに、この頃は葬祭がいつの間にか多くなってきた。今秋、姪の結婚式に出席した時、久々の祝い事に出会ったのが、無性に嬉しく感じてしまった。
その時の出来事である。楽しく歓談している時に、上着のポケットに手を入れると、何かが入っている。取り出してみると、何と「数珠」であった。僕は、慌てて仕舞った。この頃ずっと続いている葬儀、その際に数珠を忘れないように入れておいたのである。
葬祭の話のついでに、もう一つ感じていることを語ろうと思う。この頃の冠婚葬祭は、セレモニー・ホールで行われるのが殆どになっている。昔は、結婚式も新郎の自宅で行っていた。葬儀は、セレモニーホールを利用した方が、悲しむ身内の方々に余分な負担が掛からなくて、ベターだと思う。
僕の住む街と周辺にも、セレモニーホールが沢山出来ている。その前を通り掛ると、見送った先輩・友人、時には後輩達のことを、つい思い出してしまう。改めて、「 安らかに、お眠り下さい。 あの世で(も)、素晴らしい体験を一杯して幸せに暮らして下さい。」霊魂に祈り、ハンドルから片手を放して、両手を合わせる。
思い出す数も、多くなってきている。瀬戸のホール;人柄は良いが要領が悪い若者が、最悪の人達に出会い、猿投山々中でドラム缶の中で焼死した。その悲しい事件を新聞記事で知った僕は、驚いて彼の通夜に駆け付けた。けれども、見送る人も少なく、寂しさを感じてしまう。親御さんは、盛んに僕に語りかけ、何度もお礼を述べておられた。
尾張旭の2ホール;一つは、テニスの女性仲間の葬儀である。色々な病魔に襲われながらも、明るく活発に人生を歩んでいた。けれど、遂に50歳の時に旅立たれた。コートで、80歳の母と共に、テニスを楽しんでいた姿を、懐かしく思い出す。出棺前の最後の対面で、夫の送る言葉が今でも忘れられない。
「幸子(仮名)、もう苦しまなくていいよ。安らかに、お眠りなさい。」
もう一つは、恵まれない家庭の子供達を、的確に心優しく面倒をみてこられた女性との告別である。双方の子供達2人が同じ保育園に通い、家族ぐるみで付き合いをしてきた。両方で、色々お世話になっている。仲の良い素敵な夫妻だったのに、やがて離婚してしまった。その理由は、今も分からない。その直後に、不治の病に冒されてしまった。40代の若さである。
素晴らしき友の悲しい死を惜しむ仲間達が集まり、“送る詩と歌の葬儀” を企画した。 その告別式には、 多くの参列者が集まって、一緒に見送った。別れた夫の姿はないのは、致仕方あるまい。けれど、最愛の日々を一緒に沢山過ごした夫婦だったのに、やはり僕は寂しさを感じてしまう。
春日井のホール;物知りであり、格好良く振る舞う。面倒見が良くて、何かと仕切りたがる男性、身内の葬儀ではあれこれと取り仕切っていた。やがて迎えた自身の葬儀、最後には全く違う流儀で取り仕切られて、あの世に往った。
もっと、もっと思い出す。その数は、年々増えるばかりである。生前の元気な顔と出来事が、色々と浮かんでくる。明日は、我が身である。その内に、自分の順番が回ってくる日も、そんなに遠くの事ではないのを感じる。
やがて消え行く“一つの人生”である。残った人生を元気に楽しく、少しでも長く過ごしたいものである。(小幡グリーンテニスの皆さん、宜しくお願いします。健さんと半太郎さんが、素晴らしい目標です。)
’09年秋 Shinobu T.
<PS>
寂しい葬祭の話ばかりになってしまった。ご免なさい。目出たい冠婚についても、思うことが沢山あります。今回は長くなり過ぎてしまうから、またの機会に語ろうと思います。