最近義理の両親を養護施設に入れました。母はアルツハイマーでボケが始まり今年の3月に、そのあとルンルンで過していた父も夏の暑さでいろんな機能障害を起こして入院、ついに退院と同時に施設に入りました。おかげでこのような施設をじっくり見ることができました。全員が個室で50人くらいの老人が収容されています。ほとんどの老人が黙って座って口を開いたまま上を向いています。テレビはかかっていますが見ている人はほんの一部です。隣に座っている人とお話しするでもありません。まさしく皆がボーっとしているだけなのです。 なんとも愕然としてしまう光景です。明日はわが身かと思うと・・。
こういうところに収容される人たちは、自分で希望される人もいるのでしょうが、多くは介護が家族の手に負えなくなってきているのでしょう。預ける家族もなんとなく後ろめたさもあり、また預けられる老人にも家族に対する気兼ねがないのでしょうか。施設に収容される場合でなくとも、中には老老介護での苦痛から無理心中を図ったりするケースまで聞かれます。
どうも最近年取ったせいかそんなことばかり考えています。思うに、人間以外の動物なら、自分で餌を取れなくなったらそこでおしまいになるのです。足が一本折れてしまったら、自分で餌は取れません。せいぜい他の生き物の餌になるくらいです。そこへいくと人間は素晴しいのです。仲間がちゃんと餌を運んでくれて、挙句の果て胃の中まで流し込んでくれるのですから。しかしこれが生き物の掟に逆らっているように思えてくるのです。つまりは、自分で餌がとれなくなったら動物はそれでおしまいにするのが自然の摂理ではありますまいか。それを無理やり、いったい誰の利益のためにか、自然に逆らって命ながらえさせんとするのでしょうか。老人介護産業のためでしょうか。老人医療関係業界のためでしょうか。無理やり生きながらえさせられている老人にとってこの状態は幸せには見えないのですが、私の偏見でしょうか。
あまり批判的なことはおくことにして、自分の死に際を考えて見ましょう。よく心筋梗塞か何かでポックリ死ねたら最高だということを聞きます。私の身近にもそんな幸せな人がおりました。ビール二本飲んで「おやすみ」といったきり二度と起きてはきませんでした。しかしこれはあまりにもあっけない。そこへ行くと癌はどうでしょうかね。死ぬまでに短くても半年くらいはあります。それくらいあればいろいろな整理が出来ます。それに最近は、痛み止めの考え方が進んできましたので、痛み出したら何とかしてくれることが多いようです。私の父も骨に転移してボロボロになってしまいましたが、モルヒネをうんと効かせてもらったおかげで半月間いびきをかいて眠っていました。癌というのは「ほとんど助からない」というように理解されておりますがどの道いずれかは死ぬのです。癌も悪くないなと思うようになってきました。
問題は、体の自由が聞かなくなってそれでも癌にならないときどうするかなのです。ほうっておけば色々介護されて、施設に入れられ、あげくオムツまでされてしまいます。どうしましょう。何とか、自分の寿命を自分でコントロールする方法がないでしょうか。短くすることだったら出来ます。自殺です。自殺しかないのです。尊厳を保ってまんまと死ぬ方法は。昔の侍は自己の尊厳を維持するためによく腹を切りました。まあ、なかには強制されて切った人もあるようですが・・。しかしこれは私には向きそうもありません。そんな痛みに堪えられる忍耐力がない。介錯してくれそうな人もない。首吊りも見苦しいし、飛び降りもイマイチだし。先日、NHKのスタヂオパークというのに妻に先立たれて鬱になった気象学者が何度も自殺をしようとしたが踏み切れなかったという話をしていました。彼が試みたのはマンションの屋上からの飛び降りだったらしいのですが、その踏み切れなかった理由が「途中で後悔する可能性がある』琴だったというのです。若し落下の途中で後悔の念が生じたら、後悔を背負ったまま死ななければならないのだと思うと飛べなかったということです。アメリカの金門橋というのは飛び降り自殺の名所だそうですが、下が海のせいか何人かは助かるのだそうです。そういう人たちはほとんどが落下の途中で後悔しているのだそうです。そういう意味では、首吊りも同じなのでしょう。青酸カリもほぼ同じだろう。
そこで、自分で完全にコントロールできる自殺の方法は、断食しかあるまい。途中で気が変わったらいつでも取り返しがつく。切腹よりも意志の強さを必要とする。やり遂げたという満足感も強そうだ。廃棄物がない。人に迷惑をかけることもあるまい。うまくいけばそのままミイラになれそうだ。問題は空腹感に堪えられるかだけだ。いよいよ被介護の身分になったら一度挑戦してみようと思っています。それまでは元気でいこう。こんな風に。
こういうところに収容される人たちは、自分で希望される人もいるのでしょうが、多くは介護が家族の手に負えなくなってきているのでしょう。預ける家族もなんとなく後ろめたさもあり、また預けられる老人にも家族に対する気兼ねがないのでしょうか。施設に収容される場合でなくとも、中には老老介護での苦痛から無理心中を図ったりするケースまで聞かれます。
どうも最近年取ったせいかそんなことばかり考えています。思うに、人間以外の動物なら、自分で餌を取れなくなったらそこでおしまいになるのです。足が一本折れてしまったら、自分で餌は取れません。せいぜい他の生き物の餌になるくらいです。そこへいくと人間は素晴しいのです。仲間がちゃんと餌を運んでくれて、挙句の果て胃の中まで流し込んでくれるのですから。しかしこれが生き物の掟に逆らっているように思えてくるのです。つまりは、自分で餌がとれなくなったら動物はそれでおしまいにするのが自然の摂理ではありますまいか。それを無理やり、いったい誰の利益のためにか、自然に逆らって命ながらえさせんとするのでしょうか。老人介護産業のためでしょうか。老人医療関係業界のためでしょうか。無理やり生きながらえさせられている老人にとってこの状態は幸せには見えないのですが、私の偏見でしょうか。
あまり批判的なことはおくことにして、自分の死に際を考えて見ましょう。よく心筋梗塞か何かでポックリ死ねたら最高だということを聞きます。私の身近にもそんな幸せな人がおりました。ビール二本飲んで「おやすみ」といったきり二度と起きてはきませんでした。しかしこれはあまりにもあっけない。そこへ行くと癌はどうでしょうかね。死ぬまでに短くても半年くらいはあります。それくらいあればいろいろな整理が出来ます。それに最近は、痛み止めの考え方が進んできましたので、痛み出したら何とかしてくれることが多いようです。私の父も骨に転移してボロボロになってしまいましたが、モルヒネをうんと効かせてもらったおかげで半月間いびきをかいて眠っていました。癌というのは「ほとんど助からない」というように理解されておりますがどの道いずれかは死ぬのです。癌も悪くないなと思うようになってきました。
問題は、体の自由が聞かなくなってそれでも癌にならないときどうするかなのです。ほうっておけば色々介護されて、施設に入れられ、あげくオムツまでされてしまいます。どうしましょう。何とか、自分の寿命を自分でコントロールする方法がないでしょうか。短くすることだったら出来ます。自殺です。自殺しかないのです。尊厳を保ってまんまと死ぬ方法は。昔の侍は自己の尊厳を維持するためによく腹を切りました。まあ、なかには強制されて切った人もあるようですが・・。しかしこれは私には向きそうもありません。そんな痛みに堪えられる忍耐力がない。介錯してくれそうな人もない。首吊りも見苦しいし、飛び降りもイマイチだし。先日、NHKのスタヂオパークというのに妻に先立たれて鬱になった気象学者が何度も自殺をしようとしたが踏み切れなかったという話をしていました。彼が試みたのはマンションの屋上からの飛び降りだったらしいのですが、その踏み切れなかった理由が「途中で後悔する可能性がある』琴だったというのです。若し落下の途中で後悔の念が生じたら、後悔を背負ったまま死ななければならないのだと思うと飛べなかったということです。アメリカの金門橋というのは飛び降り自殺の名所だそうですが、下が海のせいか何人かは助かるのだそうです。そういう人たちはほとんどが落下の途中で後悔しているのだそうです。そういう意味では、首吊りも同じなのでしょう。青酸カリもほぼ同じだろう。
そこで、自分で完全にコントロールできる自殺の方法は、断食しかあるまい。途中で気が変わったらいつでも取り返しがつく。切腹よりも意志の強さを必要とする。やり遂げたという満足感も強そうだ。廃棄物がない。人に迷惑をかけることもあるまい。うまくいけばそのままミイラになれそうだ。問題は空腹感に堪えられるかだけだ。いよいよ被介護の身分になったら一度挑戦してみようと思っています。それまでは元気でいこう。こんな風に。