福知山線の列車事故も一段落し、ATSの強化を軸に無事に運転が再開されました。
同じような転覆事故が昭和23年に身近な瀬戸電でも起こっていたことはあまり知られていません。当時私は小学5年生、小幡緑地(西園)の南側に現存する桜ヶ丘住宅に住んでおり、休みの日には小幡ヶ原で草野球をして過ごしておりました。1月5日の事故当日も、野球を始めてまもなく、喜多山方面から来た自転車のおじさんが、「大森駅の近くで大事故があったよ」と教えてくれました。それ行けとばかりに悪童全員が駈足で事故現場に出かけたわけです。事故現場は<事故現場の位置関係>をクリックすると判りますが、小幡ヶ原からは約3キロ東、小幡緑地からでも4キロ足らずのところで、大森駅東の曹洞宗法輪寺の裏手でした。そのころの小幡ヶ原は草っ原で何もありません。喜多山の永塚古墳までしとはしり、後は田んぼのあぜ道を走ってすぐに現場に到着しました。
事故現場は蒸気が立ち込めているような感じで陰気に思えました。当日は晴天だったと思いますが、事故現場の南側には竹薮が迫っており全体に暗い感じでした。事故に関する記事が<せとでんの100年/2005/中日新聞>に記載されていますのでクリックして見てください。事故はスピードを出しすぎてカーブに差掛かった電車が急ブレーキをかけて減速しようとしたため、2両目が持上がり脱線転覆したとの情報が流れていました。1両目は転覆した2両目を50メートルほど引きずった後、転覆したとのことで2両目の損傷がひどく天蓋が無くなっている部分はひどく壊れておりました。転覆車両の周りには蓆や藁が散乱していますが、なんとこれらは遺体などの上に置かれていたものです。関係者がそれらを持ち上げて確認していましたが、手首、腕、顔のない遺体などが散乱しており見るに耐えない状態でした。この事故は死者34名、負傷者108名の大事故でした。この事故を目撃してJR福知山線事故(死者108名、負傷者596名)、御巣鷹山墜落事故(死者520名)を考えるとその悲惨さが目に浮かびます。
この様な大事故にもかかわらず当時はあまり騒がれるここもなく終息したように思います。250万人以上の人が亡くなった太平洋戦争が終わって1年半、シベリヤには60万人近くの人が抑留状態、東南アジアからの20万人におよぶ引上げなどの時代背景が瀬戸電事故にはあまり衆目が集まらなかった原因でしょう。
当時の瀬戸線は急カーブが多く、特に大曽根の中央線のガード下ではR90(半径90メートルのカーブ)の驚くべき急カーブがあったように記憶しています。電車が通るといつもキーキー音がして係員が時々油を刷毛で塗っていました。全般に急カーブが多く、小幡から終点堀川まで45分以上かかりました。現在はカーブを緩くしたなどにより栄まで20分足らずで到着します。大森の事故現場も当時はR160でしたが現在はR350と緩くなっています。JR福知山線の事故現場はR300との記事があります。
事故を起こした車両の番号は「565」番で「ゴロゴロ」との語呂あわせで覚えていますが、2~3年後には復活し長い間利用されていました。
事故時は見習い運転手が運転していたとのことでした。母一人子一人の子息で10年間ほど事故日、お盆などに<交通安全地蔵尊、受難之碑>に花を手向けておられたとのことですが、その後の消息は不明です。
現在は名古屋鉄道(株)喜多山乗務区の方々および地蔵尊の近くにある「喫茶、軽食の店 我流」のご主人がお守りをされております。事故があると関わりのある人々の人生に多大な影響があります。無事であることを祈らずにはおられません。
同じような転覆事故が昭和23年に身近な瀬戸電でも起こっていたことはあまり知られていません。当時私は小学5年生、小幡緑地(西園)の南側に現存する桜ヶ丘住宅に住んでおり、休みの日には小幡ヶ原で草野球をして過ごしておりました。1月5日の事故当日も、野球を始めてまもなく、喜多山方面から来た自転車のおじさんが、「大森駅の近くで大事故があったよ」と教えてくれました。それ行けとばかりに悪童全員が駈足で事故現場に出かけたわけです。事故現場は<事故現場の位置関係>をクリックすると判りますが、小幡ヶ原からは約3キロ東、小幡緑地からでも4キロ足らずのところで、大森駅東の曹洞宗法輪寺の裏手でした。そのころの小幡ヶ原は草っ原で何もありません。喜多山の永塚古墳までしとはしり、後は田んぼのあぜ道を走ってすぐに現場に到着しました。
事故現場は蒸気が立ち込めているような感じで陰気に思えました。当日は晴天だったと思いますが、事故現場の南側には竹薮が迫っており全体に暗い感じでした。事故に関する記事が<せとでんの100年/2005/中日新聞>に記載されていますのでクリックして見てください。事故はスピードを出しすぎてカーブに差掛かった電車が急ブレーキをかけて減速しようとしたため、2両目が持上がり脱線転覆したとの情報が流れていました。1両目は転覆した2両目を50メートルほど引きずった後、転覆したとのことで2両目の損傷がひどく天蓋が無くなっている部分はひどく壊れておりました。転覆車両の周りには蓆や藁が散乱していますが、なんとこれらは遺体などの上に置かれていたものです。関係者がそれらを持ち上げて確認していましたが、手首、腕、顔のない遺体などが散乱しており見るに耐えない状態でした。この事故は死者34名、負傷者108名の大事故でした。この事故を目撃してJR福知山線事故(死者108名、負傷者596名)、御巣鷹山墜落事故(死者520名)を考えるとその悲惨さが目に浮かびます。
この様な大事故にもかかわらず当時はあまり騒がれるここもなく終息したように思います。250万人以上の人が亡くなった太平洋戦争が終わって1年半、シベリヤには60万人近くの人が抑留状態、東南アジアからの20万人におよぶ引上げなどの時代背景が瀬戸電事故にはあまり衆目が集まらなかった原因でしょう。
当時の瀬戸線は急カーブが多く、特に大曽根の中央線のガード下ではR90(半径90メートルのカーブ)の驚くべき急カーブがあったように記憶しています。電車が通るといつもキーキー音がして係員が時々油を刷毛で塗っていました。全般に急カーブが多く、小幡から終点堀川まで45分以上かかりました。現在はカーブを緩くしたなどにより栄まで20分足らずで到着します。大森の事故現場も当時はR160でしたが現在はR350と緩くなっています。JR福知山線の事故現場はR300との記事があります。
事故を起こした車両の番号は「565」番で「ゴロゴロ」との語呂あわせで覚えていますが、2~3年後には復活し長い間利用されていました。
事故時は見習い運転手が運転していたとのことでした。母一人子一人の子息で10年間ほど事故日、お盆などに<交通安全地蔵尊、受難之碑>に花を手向けておられたとのことですが、その後の消息は不明です。